『ヌーヴェルヴァーグ(NOUVELLE VAGUE)』はゴダール愛に満ちていた

知ってるようで知らなかったゴダール。
知ってるようで知らなかった『勝手にしやがれ』。
ゴダール愛に満ち満ちた素晴らしく温かく嬉しい映画でした。
リチャード・リンクレイター監督作品『ヌーヴェルヴァーグ(NOUVELLE VAGUE)』。
“ヌーヴェルヴァーグ(Nouvelle Vague)”とは、1950年代末にフランスで始まった新しい映画運動。従前の映画が演出、撮影、編集などに抱えていたルールを打ち破った。
文字通り“ヌーヴェルヴァーグ=新しい波”として映画界に革命を起こした。ロケ撮影、手持ちカメラ、即興演出などが特徴だ。
ヌーヴェルヴァーグ1番の代表作と言えば、ジャン=リュック・ゴダール (Jean-Luc Godard)の『勝手にしやがれ(À bout de souffle)』を挙げる人が多い。
原題の“À bout de souffle”を直訳すると、「息切れ」とか「力尽きて」という意味で、ラストシーンを暗示している。
本作『ヌーヴェルヴァーグ』は、『勝手にしやがれ』の“あとから作ったメイキングムービー”になっている。しかし、ありがちな人物伝でも歴史検証でもない。リンクレイターは映画手法的にもゴダールを踏襲していて、半端ではないリスペクトの度合いだ。
一方で、『勝手にしやがれ』を観てなくてもその魅力に触れながら十分に楽しめる映画に仕上がっている。
ゴダールの映画製作現場にあった大混乱や活気を見事に再現し、人物たちを魅力的に描き上げているからだ。本作を観たら、観たことのない人は『勝手にしやがれ』を絶対に観たくなる。観たことのある人は、もう一度見たくなる。私も後者の1人だった。
ゴダールは台本を書かずに撮影に臨んだ。先に台本があると俳優があらかじめ演技を考えてしまい、型にはまってしまうのを嫌ったからだ。俳優がセリフを知るのは、早くて撮影当日の朝。それどころか、カメラが回っている本番中にゴダールは俳優に動きの指示や即興のセリフを与えている。
あとからセリフを録音し直すアフレコ(ポストシンクロ)だからこそ可能な演出法だ。スタニフラフスキー理論の役作りを完全に否定し、生々しい即興を求めている。
その後の同時録音(シンクロ)で撮った作品ではどうしていたのか? 俳優に小さなイヤフォンを付けさせ、本番中に即興のセリフを送り込んでいた。このことを知ってゴダール映画を観ると、役者の動きや表情で、「今、ゴダールが呟いたな!」と分かるカットがある。こんなことをやった監督は他に知らない。とにかく嬉しいくらい型破りなのだ。
ゴダール映画のストーリー展開には、チェーホフ的な“伏線→回収”なんていうテクニックはない。ゴダールは、「映画は演劇や小説に従属すべきではなく、映画として別な芸術表現でなくてはならない」と公言していた。
それは正しい! しかしそれを実現するのはもの凄く難しい。60年以上前のゴダールの問題提起にいまだ誰も本格的に応え切れていない。
俳優たちに注目しながら、『ヌーヴェルヴァーグ』をみていくとしよう。
ジーン・セバーグを演じたのはゾーイ・ドゥイッチ。最初、ゴダールの即興演出に馴染めずにいるが、次第にゴダールの世界にすっかり入り込んでしまうセバーグ。キュートな魅力はもちろんだが、その成長過程を演じきったドゥイッチは見事だった。
ゴダールを演じたのはギヨーム・マルベック。映画監督であり、脚本、編集、撮影、作曲、モデルまでこなすマルチクリエーターだ。長編映画には初めての出演。
この人凄い! 私は途中から完全にマルベックを本物のゴダールとして観ていた。気まぐれな天才。超ジコチュウ。それでいて気が小さいところもある。そんなゴダールだ。
撮影現場では監督になりきっていて、ドゥイッチもリンクレイターも、「現場に2人の監督がいるようだった」と異口同音に語っている。
ジャン=ポール・ベルモンドを演じたオーブリー・ダリンも頑張っていたが、ちょっと童顔で気のよさそうなところが見えてしまった。不機嫌さ、不良感ではベルモンドに及ばなかったかな…
パオロ・ルカ・ノエが演じたジーン・セバーグの当時の夫フランソワ・モレイユがなかなかよかった。
モレイユが『勝手にしやがれ』に大きく貢献していたのは知らなかった。元弁護士で映画監督に転じた。ジーン・セバーグが途中降板を口にしたとき、「法律的には可能だが、道義的には…」みたいなセリフがあった。モレイユの弁護士としてのキャリアを意識してのものだ。
イイ味を出していたのは、カメラマンのラウル・クタールを演じたマチュー・バンシナ。良いカットが撮れてると、本番中にファインダー覗いたままニヤリと笑顔を見せる。
クタールはゴダール映画の最初の観客だったのだ。
「カット」をかけたあとゴダールがクタールに、「(カメラは)OKか?」と尋ねるシーンが何度かあった。本当にそうだったのだろう。2人の信頼関係をマルベックとペンシナットが見事に再現していた。
ペンシナット演じるクタールが使っているカメラがカメフレックス(Caméflex)だ。軽量で、簡単にマガジンを交換できるなど革新的な設計。多くのヌーヴェルヴァーグ作品で使われた名機だ。
個人的には、カメフレックスを使った映画の現場に助監督として参加したことがある。
「あぁ!この音だよね、カメフレックス!」と懐かしかった。厳寒の能登半島での撮影だったので、寒すぎてオイルが固まってしまいカメラが回らなくなってしまったり… いろいろとひ弱なカメラだったという記憶がある。
当時、アフレコ映画で使われたカメラの主流はアリフレックス(Arriflex)。ドイツらしいいかにも頑丈そうなカメラだった。
それに比べてカメフレックスは軽いが、ちょっとチャチな印象は否めなかった。どちらもアフレコ用なので駆動音がするが、重厚で力強いアリフレックスの音に比べて、カメフレックスはカラカラカラカラという甲高い音だった。
そして、あの有名なラストシーンの話をしなくてはならない。
警官に撃たれ“力尽きて”路上に倒れたジャン=ポール・ベルモンド。その最後のセリフは、「最低だ(C'est vraiment dégueulasse)」。そばに立つジーン・セバーグは、「Qu'est-ce que c'est, "dégueulasse" ?(“最低”ってどういう意味?)」とカメラ目線で呟く。
ジーン・セバーグのセリフは誰に向けたものなのか? 今でも論争になるくらいだが、私は観客に解釈を委ねたラストシーンとして高く評価している。
で、問題はこのラストシーンがどういう過程を経て成立したのかだ。
一般的には、「ゴダールがその場で思いついた即興演出だ」と言われているが、本作『ヌーヴェルヴァーグ』では、今までになかった新しい解釈を行っている。
プロデューサーのミシェル・ペダンは、「(この映画の中で)観客がゴダールの口から聞く言葉は、彼が書いたり話したりした言葉だ」と明言している。
…ということは、『ヌーヴェルヴァーグ』が真実を伝えているのか。あるいは新解釈はリンクレイター監督による創作なのか…
この場面を見届けるためだけであっても、本作を観る価値は十分にあると思います。
●ゴダール関連の過去の記事
『グッバイ・ゴダール!(Le Redoutable)』と『中国女(La Chinoise)』
- 『グッバイ・ゴダール!(Le Redoutable)』は『中国女(La Chinoise)』の“あとから作ったメイキングムービー”とも言えます。
- 『ヌーヴェルヴァーグ(NOUVELLE VAGUE)』は、ゴダールに関する2本目の“あとから作ったメイキングムービー”。

