スージー・ミラー作『プライマ・フェイシィ(Prima Facie)-私の声を聞いて- 』

作:スージー・ミラー
翻訳:徐賀世子 演出:栗山民也 出演:三浦透子
下北沢ザ・スズナリで観ました。
2019年、シドニーのステイブルズ・シアターで初演された一人芝居(モノドラマ)。
作者のスージー・ミラーは劇作家であると同時に人権問題・刑事事件を扱う弁護士でもあります。
気鋭の女性弁護士テッサ(三浦透子)が得意とするのは、性的暴行、つまりレイプで訴えられた男性の弁護だ。
あるときは舌鋒鋭く、あるときは原告や検事の油断を誘うフェイントをかけ… 優れた法廷技術と「疑わしきは被告人の利益」という法制度を武器に意気揚々と男たちの無罪を勝ち取っていた。
しかしある日、そのテッサ自身が性的暴行の被害者になってしまう。相手は同僚の男性弁護士だ。
大きな評判を呼び、ウエストエンド、ブロードウェイにも進出。
世界各地で現地語翻訳版の上演が続いている。ザッと挙げただけでも、トルコ、スペイン、ドイツ、アイスランド、オランダ、フランス、セルビア、ブラジル、中国本土、香港、メキシコ、ノルウェー、ブルガリア、ネパール等々。凄い!
日本でもロンドンのハロルド・ピンター劇場での公演がナショナルシアターライブとして映画館で上映されたが、見逃していた。
今回の栗山民也演出、三浦透子出演による『プライマ・フェイシィ(Prima Facie)-私の声を聞いて-』が、日本での初演となる。
タイトルの“Prima Facie”は、法的には「一見して」「反証がない限り有効な」「一見して明らかな」といった意味を持つ。
性犯罪裁判の法廷では、この「一見して明らか」な事実が、被告側の弁護士による執拗な尋問によって簡単に「曖昧なもの」「信憑性の低いもの」へと解体されてしまう。テッサが被害者となったこの事件でも同じだ。
日本語の副題にある“私の声を聞いて”には、法廷における事実の解体に対する女性被害者の思いが込められている。
スージー・ミラーは記している。「その判例は何世代にもわたる男性の判事たちによって決定され、法律は何世代にもわたる男性政治家たちによって決められてきました。つまり性暴力の法は女性の実体験に合わないのです」と。
公演を観ながら考えた。
スージー・ミラーはどんな意図があって『プライマ・フェイシィ』を一人芝居にしたのか?内容的・構成的には複数の役者によるリアリズム演劇としても成立するのに。
テッサに起きた“事件”を客観的な事件として見つめるのではなく、テッサの身体感覚や心理からだけ観て欲しかったのだろう。
複数の役者による舞台にしたら、ミステリーの要素、サスペンスの要素が前に出てきてしまい、観客はあくまで舞台を外から見つめることになっていたはずだ。
スージー・ミラーの意図は成功している。
もう一つ。
この芝居、女性が観るのと男性が観るのでは、突き刺さり方がかなり違うのではないか。ステレオタイプで切り分けるつもりはないので、あくまで“傾向としては”の話だが…
女性の場合は共感や既視感が大きく、男性には深く反省を求めてくる。なかには自己嫌悪に陥る人もいるかも知れない。
それでよい気がするし、そこからしか始まらないとも思う。
三浦透子、凄い! 約110分をもの凄い集中力で演じきっていた。怖いほど役に入り込んでいたと思う。
舞台美術はナショナルシアターライブのハロルド・ピンター劇場版に比べるとかなりシンプル(予告編で観る限り)。写真からの判断だが、シドニーでの初演の舞台を意識しているようだ。
東京公演は下北沢ザ・スズナリ。残念ながら古くて狭い。
ただそれを逆手に取ったかのような演出と演技があった。内容は細かく明かせないが、ザ・スズナリならではの舞台と客席の近さを生かしたラストシーンは大感動だった。
世界中で上演されているから凄いのではない。凄いから世界中で上演されているのだ。
深く印象に残った舞台でした。
ナショナルシアターライブの再上映があれば、必ず観たいと思います。

