大森一樹を追悼する

思いもよらない訃報が飛び込んできた。
大森一樹死去。まだ70歳だぜ。
助監督をやっていた頃、お世話になった監督の1人。なぜか気に入ってくれたのか、年が近かったせいなのか、随分、新宿で飲み歩いた。

最初、『前立腺の病気と予防』という短編映画を手伝った。大森さんの母校・京都府立医科大学が企画した医学的啓発目的の短編映画。
この映画、私の名前まで含めて大森さんのフィルモグラフィーに載っているのでビックリ!

https://www.japanese-cinema-db.jp/Details?id=13600

助監督は私1人で制作部も兼ねた。もちろんロケ車の運転も(笑)。1981年の春だった。

そしてその夏、『風の歌を聴け』のセカンド助監督に。村上春樹の短編小説の映画化。ATG映画です。
お世辞にも現場能力が高いとは言えなかった私を抜擢してくれたのは、『前立腺の病気と予防』でウマが合ったからだったのでしょう。

ロケは8月で準備は6月から始まっていた。
私が参加した時点で決まっていた主要なキャストは“僕"の小林薫と“女"の真行寺君枝だけ。
他に重要な脇役として、“鼠"と“ジェイ"を急いで決める必要があった。
当時、テクノポップに塡っていた私は、“鼠"にヒカシューの巻上公一を推薦。巻上さんは、「東京キッドブラザーズ」などで演劇の経験も積んでいた。「いけるだろう!」という確信はあった。
大森さんは最初、「マキガミって誰や?」という反応だった。今だったら、その場でYouTubeを見せればOKなんだろうけど、80年代ですから。
翌日、ニューミュージックマガジンに載ってた特集記事を見せたと思う。で、「面白そうやな!」って話になり、会って決まった。

“ジェイ"は、映画の中で重要な舞台となるジャズ喫茶「ジェイズ・バー」のマスター。「これは、ジャズマンにやらせるしかない!」と勝手に思い込んだ私は、坂田明を推奨。実は当時、私はテクノ以上にフリージャズに塡っていた(笑)。
正直、坂田さんがどこまで芝居ができるか知らなかったけど、大森さんと引き合わせると意気投合。一発決定!

他に準備期間でよく覚えているのは、1人で村上春樹の自宅を訪ねたこと。確か習志野だった。
コンクリート打ちっぱなしみたいな部屋。
「ジェイズ・バー」にはピンボール台が必要だった。村上邸にピンボール台があると。
しかし、そこにあったのは…
一部電動でおまけに動かないバーもある1台。原作者に申し訳ないのだが、「これは使えない!大森さんは納得しない。別を探さねば」と瞬間的に判断した。
その時に、村上春樹が「まぁ、遠くまでご苦労様。冷たいものでも一杯」と言って、部屋に置いてある1ドアの小さな冷蔵庫の扉を開けた。なんと上から下までBudweiserの缶ビールで満杯!当時の村上春樹の世界そのものだった。
かくして、私は村上春樹の手から直接バド缶を受け取って、一緒に飲むという貴重な体験をした。大森さんのお陰だ!

ピンボール台は、寺山修司の天井桟敷にあったものを借りた。
当時、ATG映画の最低予算は2000万と言われていた。それを半分の1000万に削って作るという野心作(!?)が『風の歌を聴け』だった。
西宮の甲子園口にあったボロボロの一軒家にスタッフ・キャストが合宿して、20日間程度の突貫撮影。
予算とは直接関係ないが、セカンド助監督の経験値および現場能力の低さが随所で露呈して、悔しく、恥ずかしい思いも数々… でも、不思議と大森さんから怒られたことはなかった。
当時の大森さんの演出は、「役者の素を引き出す」というスタイルだった。新劇的な役作りを強制するわけはなく、もちろん様式芝居を目指したのでもない。
『オレンジロード急行』『ヒポクラテスたち』『風の歌を聴け』という初期の大森映画を見ると、「役者の素」を直接「役」につなげる大森さんならではの演出術が見えてくる(かなり後になって気がついたのだが)。
その典型例が、『オレンジロード急行』の嵐寛寿郎と岡田嘉子であり、『風の歌を聴け』の巻上公一と坂田明だったような気がする。

で、ポスプロ(簡単に言えば編集と録音)に入ると、他の助監督や制作部はみんな消えてしまい、残ったのは私だけ。
もちろん仕事は朝から一緒。終われば、「新宿行くか!」。
低予算の映画だったが、監督だけは自由に飲める場所(安い店ですが)をプロデューサーが確保していた。よって大森さんはもちろん、ついでに私も新宿で財布を開く必要はなかった。旧き良き時代だ。
今思えば、『風の歌を聴け』のポスプロ期間が大森さんとの一番濃厚な時間だった。飲みながら、なんの話をしていたのだろう…
直接的に明日どうこうとか明後日どうこうなんて不粋はしない。映画論や音楽論だ。勉強になった。そしてヘロヘロのベロベロ。
当時、大森さんは東京に来ると四ッ谷にある友人(確か「ぴあ」のプロデューサーだった)のマンションに泊まっていた。結局、私もそこになだれ込むので、ポスプロ期間は3分の1も自宅に帰っていない。

そんなこんなで、映画『風の歌を聴け』は完成した。
たいして評価してくれない批評家もいたが、やけに好感を持ってくれた人も。今でも通用するスタイリッシュさを持っている不思議な映画だ。
しかし、世の中がどう評価しようと、私の中に生きる大森一樹は『風の歌を聴け』そのものだし、『風の歌を聴け』は大森一樹そのものなのだ。
大森さん、70年という残念とも言える短い生涯を閉じましたが、私の心から『風の歌を聴け』の日々が消えることはありません。
ご冥福をお祈りします。

ps.
添付写真は、『風の歌を聴け』のスチルを担当した写真家糸川耀史さんが撮影したもの。映画の公開に合わせて刊行された『ジェイズ・バーのメモワール』という素敵な写真集の中の1枚です。