お茶と器

最近、お茶と器のことを考えている。
つい数日前、煎茶道の先生の所にお邪魔した。当然、煎茶でもてなされたが、茶碗は土もの(陶器)。それも先生の友人の素人さんが作った野趣溢れるものだった。

「えっ、煎茶道では、京焼きとか伊万里の白磁染め付けの茶碗じゃないんですか?」
「いいのよ、家で飲むときは、土ものが一番!色は分かり難くなるけど、お茶の味は、土もので飲んだ方が絶対に良いんだもの!」
…だそうだ。
どうも、先入観にとらわれて、お茶と器との関係を固定的に考えすぎていたと反省した。

さらに数日後、お茶の焙煎師に出会った。彼女は、中国茶と日本茶の両方を扱うが、日本茶も中国茶器で煎れる。さらに、中国茶の香りを味合うための聞香杯を煎茶にも使う。これは良かった!聞香杯を使うことで、ストレートに煎茶の香りを味わうことができた。

考えてみると、朱泥(土もの)の中国茶器は実に良くできている。内側に白磁の釉薬を掛けて色を見やすくしながら、陶器の特性で、熱さが指先に伝わるのを抑えている(多少だが)。95℃から100℃という温度で煎れる烏龍茶系には打って付けだ。

それに比べると、磁器と陶器の接点を見いだせなかった日本の茶器は、ちょっと様式に囚われすぎて弱い。
ただ、備前や萩の煎茶器にある味わいは、中国茶器の追従を許さないものだ。「侘び寂」と一言で片付けがちだが、日本独自の美意識が生きていることは確かだ。

何やら、あっちにフラフラ、こっちにフラフラで、結論に辿り着かないが、今現在の結論としては、朱泥茶器の機能美に感動!一方で、お茶の色を鑑賞するという視点は棄てているが、備前や萩の煎茶器の美は世界に誇れるものだと感じている。