『遠い山なみの光』石川慶監督
一体何年ぶり、いや、何十年ぶりだろうか… ロードショーの初日に映画を観た。
『遠い山なみの光』。カズオ・イシグロ原作、石川慶監督。日本・イギリス・ポーランドの3か国共同製作だ。
カズオ・イシグロに興味があり、吉田羊の大ファン。初日に観たい!という衝動に駆られた。
舞台は、1982年のイギリスの田舎と1952年の長崎。朝鮮特需で原爆からの復興に拍車がかかっているが、人々の傷は癒えようがない。
原爆、被ばく者、被ばく二世、軍国主義対戦後民主主義、朝鮮戦争と特需、フェミニズム… 多くの要素を少しミステリアスなストーリーの中に潜ませている。
出演は、広瀬すず、吉田羊、二階堂ふみ、松下洸平、三浦友和ら錚々たるメンバー。
主役は悦子という被ばく者の女性。おそらく、自分以外の家族全てを長崎原爆で失っている。
1952年の長崎で悦子を演じるのが広瀬すず。1982年のイギリスでは吉田羊が悦子だ(長崎で離婚、長崎にいたイギリス人と再婚して、イギリスに渡ったという設定)。
ハリウッドだったら、間違いなく特殊メイクで同じ俳優に演じさせただろう。普通の日本映画でも、そういう判断になると思う。敢えて別の俳優に演じさせた意図を石川慶監督が語った記事には、まだ出会っていないが、おそらく時の経過を見せることを重視したのではないか。特殊メイクによって微細な表情が消えるのを避けたかったのかも知れない。
長崎パートでは、もう一人、佐知子という被ばく者が重要な役割を果たす。悦子とは偶然出会って友人になる。二階堂ふみが好演した。
ネタバレになるので、詳しくは書けないが、悦子と佐知子の関係性は、とてもミステリアスなもので、最後の最後まで、何が真実だったのか、完全には解き明かされない。観終えても、複数の解釈が残る。
広瀬すず、吉田羊、二階堂ふみは、三人三様、緻密な役作りをしている。演劇にしても映画にしても、最後は俳優のアウトプットにかかっている。そこには、“技”もあるが、俳優本人の解釈が絶対的に重要だ。パンフレットを読むと、今回の映画で3人がどのように役作りをしていったのかがよく分かる。
そして、男性2人。
まず、松下洸平。今や、映画に、テレビに、舞台に引っ張りだこで、音楽の世界でも活躍するマルチタレントだ。その松下が悦子のダメ夫を演じる。傷痍軍人でひねている。旧態依然とした亭主関白。軍国主義から抜けられない父親に反感は持っているが、面と向かっては逆らえない。こういう役は難しい。1ミリも魅力的であってはならない。誰からも感情移入されては困る。それを見事に体現した演技。素晴らしかった。もしかすると、「オレも同じだ!」と自省的に同情する人はいるかも知れないが(笑)。
そして、三浦友和。ダメ夫の父親で、軍国主義時代の教育者という役。『PERFECT DAYS』(ヴィム・ヴェンダース監督)で、「歳取って、イイ役者になったな!」なんて思っていたが、そんなレベルではない。彼の葛藤は説明的なセリフとしては現れないが、表情と語気でしっかりと見せた。名優の域だ。ギョーカイ人たちは、昔、「モモカズはなぁ~」なんて失礼な軽口を叩いていたが、「申しわけありませ~ん!!!」と謝るしかない(笑)。
撮影はピオトル・ニエミイスキ。ポーランド人で、石川慶監督とズッとコンビを組んでいる。
この絵がまた凄い。フェルメールかレンブラントか… 光と影を徹底して使いこなした絵作り。ここまでやった映画は、なかなかないのでは。ほとんどがフィックスのショット。ごく一部、パンや移動ショットを使っているが、全編で10カットあったかなかったか…
『遠い山なみの光』は、解釈を観客に委ねる部分が多い。「伏線→回収」みたいなテクニックは、あまりなくて、「投げっぱなし」がたくさんある。登場人物の多くは、いわゆる決着が付かないままだ。
それでイイのだ! 小説にしても映画にしても、最近、分かりやすすぎる!
昨今、政治の世界でポピュリズムが少しばかり跋扈しているが、表現の世界は、だいぶん前からポピュリズムに席巻されていたのではないか… 純文学はその地位を失い、映画はシリアスなテーマを扱っても、エンタメ性と分かりやすさが求められる。
難解であれ! とは言わないが、解釈を読者や観客に委ねる作品が、もっともっと欲しい。
「作る側が観客におもねって、分かりやすさを追求する」⇔「観客が考えることを止めて、分かりやすい作品を求める」。この悪循環から脱しなければ… なんて思いも湧いた。
この映画は当たって欲しい!と心から思います。

